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同志社東京校友会ホームページへようこそ |
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ここは 新島襄エピソードプラスワンのページ |
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Mar. 26, 2008 |
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Mar. 10, 2008 |
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例年の新島襄先生の生誕碑前祭が2008年2月12日に、生誕地近郊の学士会館で行われ、同志社大学大谷総長、同志社大学田中校友課長、東京校友会支部長、校友20数名が参加しました。
現役学生4名も参加し、新島襄の東京一ツ橋の安中藩での生誕を偲びました。 掲載の小さな画像はいずれもそれぞれクリックすると大きな画像になります。 |
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Dec. 09, 2007 |
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Aug. 30, 2007 |
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テレビドラマ「女のたたかいー会津そして京都」の鑑賞会が同志社東京オフィスで7月11日(水)午後1時半から行われました。
この鑑賞会は関東在住同志社校友の有志の集まりである東京新島研究会(会長 西村四郎さんー23年経卆)が月1回開いております研究発表の一プログラムとしておこなわれたもので、当日会員以外の方々も多数出席頂けました。 私は、新島研究会会員が本や資料によるのではなく、目で新島襄その人を観察し、モーティベーションを高め、いろいろな研究に役立てられればとの思いがあり、その時思い出したのがこの作品だったのです。 偶々、このドラマをプロデュ―スしたのが同志社時代の英文学科の同窓、西村大介君だったので、彼に頼めばビデオテープが借りられると簡単に考えたのです。 彼に連絡を取ってみると、「家にない」との返事。 誰かに貸し、回りまわって何処かに行ってしまったとの残念な話。「制作の朝日放送からは、著作権が絡んでいるので借りられないだろう」との事。後は同志社にも一本ある筈だから、頼み込んで借りるしかない」との怪しげな雲行き。 そういう諦め半分の或る新島研究会の日、研究会会員のお一人であり、先輩の平岡敏雄さん(30年商卆)が会場にビデオテープ゚らしき物を持っておられるのを見て、お聞きした所、私が春先から探し求めていたドラマのテープだったのです。 平岡先輩は関西在住の同志社の同窓、樋口昌宏さん(28年法卆)からつい最近譲りうけたものだそうで、樋口さんは平岡さんが、東京新島研究会で活躍されている事を聞き、贈呈されたようです。 一つの事にいろいろな人が絡み合って、鑑賞会に結びつき、映像を通して新島襄にお目にかかれたのは、神のお導きだったのでしょうか。 ドラマの筋書きは題名にあるように、山本八重の戊辰戦争時の会津鶴ヶ城での鉄砲かついでの従軍、その後、兄山本覚馬のいる京都に移り、同志社創立時の新島襄と結婚。 社長夫人として新島襄と同志社の為、会津魂を持って奮闘する姿が描かれているのです。 又、新島先生のRutlandのGrace教会での演説、感激した老農夫による2ドルの献金。その後日本に帰っての同志社の設立、資金集めの御苦労、アメリカンボードとの関係、教会合同運運動についての苦悩等も描かれ、同志社から去っていった徳富蘇峰が「自分は新島先生を捨てたが、新島先生は自分を捨てなかった。 新島先生は品格ある教育者である」と述べる場面、八重夫人が京都から駆けつけ、小崎弘道等3人の立会いの下、亡くなる2日前、2時間に亘る新島先生の遺言の口述筆記を蘇峰にさせる場面、後々の同志社の行くべき道、特に「倜儻不羈なる書生を圧迫しないで、出きるだけ彼等の本性にしたがって個性を伸ばすようにして天下の人物を養成すること」という言葉を我々同志社人に残された雰囲気がもろに伝わってくるようでした。 配役は良心碑の碑文「良心を全身、、、、、、、、、、、」に感銘したという新島襄役の滝田栄さん。風格があり、「見事な新島ぶり」と当時の松山総長からお墨付きを与えられた程との事。また八重さん役はコマキストと呼ばれた栗原小巻さんで、ブレーキのない当時の自転車に乗るシーン、会津魂を持つ男まさりの八重さんを見事演じ、特に、新島先生から洗礼を受け、「五平さん」といつも「さん」付けで呼び親しまれた新島家の番頭役の花沢徳衛さんの名わき役振り。 鑑賞会後の話題として、RutlandのGrace教会で、2ドルの寄付をされた老農夫は、黒人として描かれていた事で、新しい発見でした。 殆どの出席者は、白人の老農夫と考えていたことです。 この鑑賞会の担当役として最後に挨拶された平岡先輩は、涙で言葉が詰まるほど感激され、卒業後50年近くなっても、新島襄と八重夫人を映像を通して学び、偲び、「同志社人でよかった」と、心から感謝の気持ちが自然に沸き起こり、感極まって涙する純粋な気持を持たれたのは先輩お一人だけではなかった筈です。。 非常に清清しい鑑賞会でした。又、同志社におかれましても、このビデオテープを「同志社科目」の一プログラムとして利用し、活用され、改めて、新島先生の教育理念を思い起こさせ、数多くの倜儻不羈なる人物の輩出の起爆材になることを期待しております。 この鑑賞会を可能ならしめられた平岡先輩にお礼を申しあげたいと思います。 |
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Mar. 11, 2007 |
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Dec. 7, 2006 |
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11月16日(木)1時10分から4時。於:同志社大学東京オフィス 例会に先立ち「新島先生の足跡を訪ねる会・岡山、玉島の旅」のビデオを上映しました。 その関係で今回は26名と今までの最高の出席者でした。 この旅で私達は「新島襄と岡山のかかわり」(8月例会で三瀬安彦さん発表)を実地検証、実りの多いものでした。ビデオは、高梁および玉島のCATVのニュース番組の録画ですが、このニュースによって地元の人々にも新島襄のことを知っていただくことができました。また、これを機に玉島の校友により「玉島新島研究会」が発足しました。 さて、今回は松村七五郎さん(昭35文)による「山本覚馬と会津藩」。淀君の時代に逆上って会津の歴史が紹介されました。保科正之(家康の孫)が会津23万石の城主になったのが始まりで、以後松平姓を名乗ります。第九代藩主・松平容保は、幕末の動乱期に幕政に参画、京都守護職に就き、公武合体を推進。会津戦争では佐幕派の中心となって戦ったが敗退。大政奉還後も徳川慶喜は権力を保つが、容保は朝敵の汚名を看せられる。孝明天皇崩御の時、京都守護職を辞して会津に帰る決意をするが、慶喜によって京都にとどめられる。 山本覚馬は、こうした時代の会津藩で会津のリーダーとして長州と対立しました。因に長州の隊長は高杉晋作。明治2年遷都の時にも病身だった覚馬は京都を離れませんでした。「覚馬が会津藩でありながら、地方(京都)官僚の地位を保つことができたのはなぜか?」という問題に「明治政府は今後いかにあるべきかについての、覚馬の見解を書いた「管見」を、岩倉具視が高く評価し、官に招聘、京都府顧問に迎えた」などの議論が交わされました。 また「松平容保の実子の容大が同志社で学んだという記録があるが、覚馬の奨めだろうか?」という声も。 「新島は同志社をつくる際にも、国の力を借りず私立を目指した。しかし、明治政府の高官とは親交が深く、財界人とも懇意にしていた。これは新島の人柄の良さのためでもあるが、新島の心の広さであると考える」という発表があり、新島襄の心の広さについても考察しようということになりました。 木村ケイ(昭29文) |
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Aug. 30, 2006 |
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― 同志社校友会青森支部、同志社同窓会青森支部 ― |
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帆船・快風丸で函館を目指した新島裏は、激しい風と潮を避けて下北半島の風間浦村・下風呂(かざまうらむら・しもぶろ)に寄港しました。1864年4月、新島21歳のことでした。2日間にわたり下風呂温泉につかり「重き荷物を卸し侯許り」と父に書き送りました。その2カ月後、新島は死を賭して国禁を犯し、函館からアメリカ商船ベルリン号で脱国を果たしたのでした。
同志社校友会青森県支部と同志社同窓会青森県支部は、これを記念して「新島裏寄港記念碑」の建立を風間浦村に働きかけ、1972年、同村「いさり火公園」に松山義則前総長ご揮毫の「新島襲先生寄港の地」碑が建立されました。その後、同村と両支部は毎年、同志社総長をお招きして「碑前条」を実施してきました。 今年で「碑前祭」も15回目になります。これを記念して、このたび全国の校友・同窓のみなさまに「碑前祭」へのご参加を呼びかけることにしました。せっかくの下北ご訪問となりますので「霊場・恐山(おそれざん)」とマグロー本釣りで有名な「大間町(おおままち)」の訪問をセットしました。1泊2日の本州最北端の旅を楽しんでみませんか。 立ち上がりが遅れ、急なご連絡となりましたが、ふるってご参加くださるようお誘い申しあげます。
記
詳細は以下の案内状をご参照ください。 |
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Aug. 23, 2006 |
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― 新島襄と岡山のかかわり ― |
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8月2日(水)PM1:30~4:00 於:同志社大学東京オフィス、今回は、会員の三瀬安彦さん(昭36商)の研究発表です。
(要旨) |
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May 5, 2006 |
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April 13, 2006 |
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July 15, 2005 |
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May 26, 2005 |
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Mar. 29, 2005 |
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同大神学部教授の本井康博先生に、「2005同志社東京・春の集い」のガイドブックに「同志社二百年」と題して一筆をお願いしました。その内容がまさにこの「新島襄エピソードプラスワン」ページにふさわしいものですから、ここに掲載させていただきます:
「同志社の完成には二百年」と新島襄が勝海舟の問いに答えた、という周知の挿話は、勝海舟全集にも新島襄全集にも出ない。最初にこれを記事(ただし典拠は未記入)にしたのは、次の石塚正治編『新島先生言行録』(一二五頁、福音社、一八九一年)であろう。 「●二百年の後を期す 先生の始めて勝伯に面するや、伯先ず問うて曰く、同志社は何年を期して成らしめんと欲するやと。先生答えて曰く、これ真神の事業なり、先ず二百年の後を期せざるを得ざるべしと。ここにおいて、伯大いに先生を信ずるに至りしという」。 ところが、最初の会談に立ち会った津田仙は別の証言を残す。新島は「凡そ三百年のつもり」と答えた、という(原田助『信仰と理想』八九頁、警醒社、一九〇九年)。 海舟をよく知る徳富蘇峰によれば、海舟は「日本を良くするには五百年くらいかかる。新島のようにあんなに急いでは命がもたぬ」と漏らしたという(拙著『新島襄の交遊』二三一頁、思文閣出版、二〇〇五年)。その点では、「三百年」の方が海舟受けしたであろう。いずれにせよ、ものを見るふたりのスパンの長さはさすがである。 本井康博(同志社大学神学部) |
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Boston在住の、同志社大学神学部をご卒業された「Joe」さんより、過日9月10日に、同大グリークラブのボストン訪問を記念する礼拝でのお祈り、式次第、そして新島襄先生とボストンとの関わりについての英文書き込みがありました。
2週間程は掲示板に掲載させていただきましたが、あくまでこれは例外的措置でして、掲示板使用に当たってのルールとしましては、10行前後での掲載を皆様にお願いしていることから、折角の書き込みでもありますことで、こちらに移動させていただきました。 どうぞここをクリックしてお読みいただきたいと存じます。 ご協力ありがとうございます。 |
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| 明治のキリスト教教育者「新島襄」先生を創始者とする我等が同志社には、歴史が古いだけに、歴史的価値の高い、多くの貴重な品々が遺されていますが、中でも、本校京都市内・今出川キャンパス内には五つ国重要文化財指定のレンガ造りの建物があります。
彰栄館(1884年、明治17年)、礼拝堂(1886年、明治19年)、有終館(1887年、明治20年)、ハリス理化学館(1890年、明治23年)そしてクラーク記念館(1894年、明治27年)がその五つの重要文化財です。本WebサイトのTOPページの画像はその礼拝堂の写真を画像処理したものです。 その他建物ではたとえば京都市指定有形文化財の「新島襄旧邸」などがありますが、新島襄先生のゆかりの地・群馬県安中市(父が安中藩士、先生自身は江戸安中藩邸生まれ)に、先生没後30周年の1919年(大正8年)に造られた「日本基督教団安中教会教会堂(新島襄記念会堂)」を、この度9月17日、文化審議会は、他の建造物と共に文部科学省に「有形文化財」としての登録申請をしました。 関連記事として日経9月18日朝刊に、また同社「NIKKEI NET」に掲載されていますので、ご参考までにご覧になっては如何でしょうか。「NIKKEI NET」のURLを下記します。(現在日経新聞社に掲載許可を申請中のためハイパーリンクをできませんので、ご面倒でも下記URLを注意深く手で打ち込んでアクセスをお願いします) http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20040918AT1G1501O17092004.html 2004-09-23 以上 |
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同志社大学では、2003年8月29日(金)まで今出川キャンパス・ハリス理化学館2階のNeesima Roomにおいて「遺品から見る新島襄企画展」を開催されています。新島襄生誕160周年を記念して「新島遺品庫」から重要な品々数十点が選択され、展示されています。すでにご覧になられた東京弓友会の山口弘治先輩から、良かったので校友の皆さんも京都へ行かれる機会があれば、ぜひ足を延ばされるように、とおすすめをいただいています。
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西村四郎さんは「同志社文学雑誌・第壱号」「同・第参号」「新島先生言行録」「新嶋先生就眠始末」(「新嶋」となっています。恐らく新島先生が米国留学中は「Niishima」だったところからそう書かれたのでしょうか)の古書4冊をお持ちだそうです。ご興味のおありの方々は直接西村四郎さんにお尋ねください。以上4冊の表紙を以下に示します。 ![]() |
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同志社東京ニュース「The Doshisha Tokyo
News」平成5年2月10日号に八木政三さん(鎌倉市在住・校友)による、新島先生が明治21年に病に倒れ入院なさった「鎌倉海浜院」は現在何になっているのだろうかと調査なさったときの苦労話の記事があります。氏の記事によれば「鎌倉海浜院」はその後2年で閉鎖され、その後「鎌倉海浜ホテル」として生まれ変わったそうです。しかし第二次大戦後進駐軍の接収下で昭和20年、21年の二度の火災で消失してしまったそうです。現在はその跡地に「鎌倉シーサイドテニスクラブ」ができているとのことです。以上の記事にご興味の方々は是非この下の小さな写真をクリックして八木さんの記事を読まれてください。![]() また、今はない「鎌倉海浜ホテル」の貴重な、戦前のパンフレットを西村四郎さんにご提供いただきましたので、その一部を皆さんにお見せしましょう。パンフレットそのものをご覧になりたい方は西村さんに直接お尋ねください。 ![]() ←(当時の部屋代がわかって面白いです) |
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| 例年、新島襄終焉の地碑前祭は1月23日に神奈川県大磯町で、新島襄生誕の地碑前祭は2月12日に東京神田一ツ橋の学士会館で、それぞれ当東京支部の主催で開催されてきましたが、平成15年より(学)同志社の主催で執り行われることになりました。 (右の写真をクリックすることによりフルサイズで見れます) |
![]() 新島襄生誕の地碑 |
![]() 新島襄終焉の地碑 |